エルサレムには行かない  エルサレム旅行に行きませんか?と誘われたことがあります。社交儀礼上しばらく考えるふりをした後、お断りしました。後70年にローマ軍によって破壊され、1099年には再び十字軍に蹂躙されたエルサレムに何が残っているのでしょうか。イスラエル政府に外貨を貢ぐのも業腹だし。そもそも信仰とはイエスの追っかけでも、推し活でもない。問われているのはイエスの復活ではなく、自分自身の復活なのです。  ナタリー・Z・デービス(1928-2002)という米国の歴史学者がいました。夫婦でレッドパージの犠牲となって教壇を追われ、パスポートも取り上げられました。数学者だったご主人は紙と鉛筆があれば研究を続けることが出来ますが、歴史学者にとっては世界各地の古文書館を回って原史料に当たることが出来ないことは大きなハンディキャップとなります。しかし、そんな中にあっても研究を続けた彼女は、やがて大きな業績を残し、世界的評価を確立するに至りました。死んだお袋は「頭は生きているうちに使え」とよく言ったものでしたが、なるほど、いつでも、どこでも、出来ることはたくさんあるのです。  聖地訪問や受難劇の旅に経験豊かな旅行社が幾つかあるようで、教会の先輩に聞くと喜んで色々と教えてくれます。そういう会社に頼めば快適で思い出深い旅が出来るに違いありません。イエスの空の墓の跡なんて観光名所もあるとか。実にいかがわしい印象ですが、観光名所なんておしなべてそんなものかもしれません。それよりも一週間そこそこの旅行のために、何ヶ月にもわたって日常生活という大切な場における自己の自由をコツコツ、積もり貯金することの方が問題ではなかろうか。そこにある自己に対する欺瞞と自由からの逃走にこそ、目を向けるべきではないではなかろうか。なぜなら、そこは地の塩、世の光として遣わされた場所のはずだから。  教会の小さな集会で80代の先輩が、復活しても最早やりたいことは何もない、と仰ったことがありました。なるほどご高齢の身であれば普段の立ち居振る舞いにも何かとご不自由も増えてくるでしょうし、健康上の不安も大きくなってくるでしょう。しかし、おそらく「復活」とは死後の何か、彼岸の何かを指すのではないのです。彼岸と此岸をヨコグシにする「今」と「ここ」にあって、御言葉の受肉という歴史的事実に向きあい、永遠の命の泉に繋がっていること、それを聖書は「復活」や「栄光」というキーワードで伝えようとしているのではなかろうか。問題は、イエスの空の墓ではない、今ここに生きている自分の霊と肉、自由と社会的責任、自分の空の墓、なのです。