日本在住のプロテスタント宣教師会議が横浜居留地39番地のヘボン宅にて初めて開かれる。この会議で、新約聖書の共同翻訳事業が決議された。
「翻訳委員社中」を発足させる。訳業は、横浜山手211番の委員長ブラウン宅でなされた。今日の横浜共立学園である。訳業にあたって委員たちはジェ-ムズ王欽定英訳聖書を参考にしたが、日本人補佐は英語を解せず、委員たちは日本語をあまり知らなかった。当時広く読まれた漢訳の「旧新約全書」(1863~64年)は、彼らの作業に資するところが大きかった。訳文は漢語を交えながら、独特の高い格調を保ち、永く日本文学の模範となった。
日本における聖書普及事業が、横浜でスコットランド聖書協会により始まる。
英国聖書協会、米国聖書協会が日本支社を設立する。米国より横浜に赴任したギュリックは、同年の報告書に「頒布した聖書は約13,000冊で、前年までに配布した分冊総数を上回る」と記している。 東京聖書翻訳委員会が発足し、旧約聖書の翻訳が始まる。
新約聖書が完成。
旧約聖書が完成。
東京築地の新栄教会で完成を感謝する祝賀会が開かれた。実に16年に亙って、ヘボンはただ一人終始変わらず訳業に尽くした。
英・米聖書協会日本支社が「日本聖書協会」となる。
敗戦後、再び米・英聖書協会の強力な支援を受ける。特に、米国聖書協会は、1,000万冊の聖書を日本に贈る運動を起こし、時の大統領トル-マンも署名募金に応じ、その賛同者数は38,000人にも達した。
日本聖書協会は財団法人として認可される。第2次世界大戦前より1948年まで7年余り中断のやむなきにあった聖書改訳も完成に近づく。
完成間近だった聖書を現代語訳に改訂することが決まる。
口語訳新約聖書完成。
口語聖書も翻訳を終え、ここに当時としては画期的とも言える口語訳日本語聖書が完成した。4月15日、銀座教会で完成感謝式典が挙行された。口語聖書の完成と共に、聖書頒布は年々飛躍していった。1964年には400万部が頒布され、以後、500万部、600万部、700万部と次第に頒布冊数が伸長した。
口語訳点字聖書全巻が完成。旧約24巻、新約8巻の計32巻から成る。
日本聖書協会が米国聖書協会、および英国聖書協会から財政的に自立し、「受ける聖書協会からささげる聖書協会」への転換を図る。
1960年代に始まった教会一致(エキュメニズム)運動が高まる中、聖書翻訳の上でもカトリック、プロテスタント両教派による共同訳聖書が望まれるようになる。日本においても、聖書協会世界連盟(UBS)が作成した「聖書翻訳におけるプロテスタントとカトリックの共同作業のための標準原則」をもとに協議が重ねられ、この年、共同訳聖書実行委員会が発足し、超教派の専門委員による協力体制を組織する。多数の聖書学者の参与により、1972年から共同訳聖書翻訳作業に着手。
「新約聖書共同訳」が完成。その直後、翻訳方針そのものが見直され「教会の典礼で用いられる聖書」を第一義に、新約の改訳作業と旧約、及び旧約聖書続編の翻訳作業が続けられる。
18年の歳月を経て、旧新約全巻「聖書新共同訳」発刊。旧約聖書続編つきも同時発行。
1986年から中国へ聖書印刷機を贈るための募金活動を展開し、UBSに86,863,680円が送金され、南京に聖書印刷工場が建設される。
新共同訳の点字版(40冊)が完成。
1990年代初頭のソ連崩壊と東欧変革に際し、旧ソ連と東欧諸国に聖書を贈るために実施されていた募金運動の結果、集められた90,820,087円をUBSに送金する。
「聖書新共同訳」の旧新約および新約聖書の総頒布数が200万冊を突破。
国際聖書製作(GSP)計画を開始。フランス語聖書25,000冊をアフリカ諸国に発送。
聖書普及活動125年を迎える。「聖書新共同訳」の旧新約および新約聖書の総頒布数が400万冊を突破。
聖書普及事業開始125年記念募金(五年間)が終結(2億736万5千98円を達成)。
今、聖書を問う「国際聖書フォーラム2006」開催 於・東京ホテルニューオータニ
『聖書 新共同訳』頒布1000万冊達成。
理事会が「翻訳方針前文」を承認。新翻訳事業発足。
9年間を経て『聖書 聖書協会共同訳』が完成、発行。
「聖書 聖書協会共同訳」発行記念講演会・奉献式(於・日本基督教団銀座教会)開催。
「聖書 聖書協会共同訳」点字版全巻が完成。